ネタバレ注意!

ネタバレ感想です。アニメなどを見た後に、感想を共有する楽しみを目的としています。

注釈の無い限り、原作での話をしています。


【萌え系】



魔法少女まどか☆マギカ(2011)
まどマギのテーマをあえて言語化するのであれば「私の孤独な戦いが、誰の目にも見てもらえなくても、世界でたった一人あなたに知ってもらえれば、私は幸せ」になると思う。
だから、マミさんは自分の、誰にも知ってもらえなかった孤独な戦いを、まどかとさやかに知ってもらえれば、「もう何も怖くない」し、そこで物語上の役割が終わってしまうから、不要なキャラとなって死んでしまう。
さやかも、たった一人杏子がいれば、それで報われる。
そしてほむらは、たった一人、かつてまどかという少女が世界のために戦ったことを、彼女だけは忘れない。
「スラブ娘の別れ」の「祖国よさようなら 私たちを忘れないで」や、「嗚呼神風特別攻撃隊」の「永久に忘れじその名こそ 神風特攻隊」などの歌詞にも通じるところがあると思う。

でも実はまどかなんて女の子はいなくて、全ては電波少女・暁美ほむらの妄想という可能性も残されてるの好き。

かぐや様は告らせたい(赤坂アカ)(2015~)
かぐや様は、1年のころは「氷のかぐや姫」と呼ばれていて、本人談で「あの頃は、周り全部的だと思っていた」みたいなことを言っていたはず。
そして、そんな氷のかぐや姫を溶かしたのは、白銀御幸への恋愛感情だった。
白銀への恋愛でかぐやも性格が変化し、それはかぐやの交友関係にも影響を及ぼした。
早坂との関係も、氷時代には事務的だったが、白銀に恋してからは友情が芽生えるようになった。

かぐや自身は、非常にプライドが高く、自身よりもすぐれた人物でないと恋愛感情を持つとは考えにくい。
面倒なことにかぐやは非常に優秀であり、かぐやよりも優秀という条件は、非常に達成が難しい。
そんなかぐやを、追い抜いてくれたのが白銀御幸であった。

そして、白銀御幸もまた、かぐやに出会わなければ、ガリ勉をして成績1位にもならなかった。

白銀御幸がかぐやに出会い、恋して、成績1位を取ったからこそ、かぐやも氷のかぐや姫でなくなった。
作品で直接言及されてはないが、こうして考察すると、なかなかにロマンチックな恋愛だと思う。
かぐやにとって、白銀の恋はまさしく人生を変える恋愛であったのであろう。

整理すると、

氷かぐや

白銀がかぐやに恋して、かぐやに定期試験での勝負を申し込む

かぐやが敗北し、白銀を意識し始めてアホかぐやになる


と言いつつ、藤原書記だけは氷時代のかぐやと友達になっているので、百合はNL(ノーマルラブ)にも劣らないってことだね。


あと、早坂愛の(アニメの)キャラデザが好き。
金髪+メイド服に、水色のネイルしてるのがアクセントになっていていい。


【ライトノベル】



扉の外(2007)
修学旅行に行くはずだった千葉紀之が目をさましたとき、そこは密室で、しかもクラス全員が同じ場所に閉じ込められていた。
分けも分からず呆然とする一行の前に、"人工知能ソフィア"を名乗る存在が現れる。
そのソフィアが示したのは唯一絶対のルール―――"ソフィアに従うこと。従っていれば生命は保証されること。"
だが、紀之は瞬間的な嫌悪感からソフィアからの庇護と呪縛を拒否してしまう。
紀之以外のクラスメイトはその"ルール"を受け入れ、"ルール"が支配する奇妙な日常がはじまった。
孤立した紀之はやがてひとつの決断を下すが……。
第13回電撃小説大賞〈金賞〉受賞作、登場!(第1巻表紙裏より)

社会とは何か、それを改めて教えてくれる良作SFラノベ。
この前まで、同じ高校のクラスメイト同士だった人々が、初めはごく些細な違いから、その違いがやがて少しずつ大きくなり、
立場を産み、階級を産み、敵対と友好関係、支配と被支配関係を生み出していく。
この社会とは、そうした立場・階級の集合体なのだ、そういったことを思い出させてくれる良作。

紫色のクオリア(2009)
ハルヒ・まどマギのネタバレあり
非常に不思議な本であった。
それは小説の中の話以上に、本書がハルヒとまどマギにそっくりな点においてである。
まるで、盗作したかのようにそっくりなのである。
本書以上に、セカイ系と呼ばれる作品群の流れ、エヴァ→ハルヒ→(紫色のクオリア)→まどマギの流れが分かったことの方が筆者には面白かった。


【ミリタリー・ロボアニメ】



機動戦士ガンダム サンダーボルト(2012~)
ファースト・ガンダム(1979)は東西冷戦時代に放送されたため、当時のベトナム戦争(~1975)等を反映して、独立戦争がテーマとなっていた。
経済力と物量に勝る連邦軍が少数精鋭のジオン軍を破り、勝利を収めるというのも、第二次世界大戦の、物量の米軍というのが念頭にあるのだと思う。
それから30年以上経過し、時代も戦争も変わり、2010年代前半に連載が始まったサンダーボルトでは、宗教原理主義と終わりのない紛争がテーマになっている。

終わりのない戦争の苦しみが丁寧に描かれているのがこの作品の魅力。
イオとコーネリアスの幼馴染ペアも、戦争に魅入られていくイオに対して、戦争を受け入れがたいものとするコーネリアスという、互いの戦争観の違いが、幼馴染の絆を引き裂いていくのが良い。
彼らも、平和な時代に生まれれば、永遠に友達で入れただろうに。

再度宇宙に上がったあたりからの、ニュータイプにより戦争の在り方が変わっていく描き方も、非常に上手。

銀河英雄伝説(石黒版)(1988~2000)
こじつけ注意

銀英伝における歴史観は「フロンティアを失った世界では、社会は身分制に回帰する」であると思われる。
銀河共和国においても、フロンティアが存在した時代においては民主制が上手くいっていたが、ワープ航法が技術的限界に達し、フロンティアが無くなると、ルドルフ大帝が現れ、民主制は打倒された。
以後長らく専制政治と身分制度の時代が続いたが、アーレ・ハイネセンが長征4万光年を成功させ、イゼルローン回廊を抜けた銀河西部に、新たなフロンティアを発見すると、フロンティアと共に民主制は復活した。
なぜフロンティアが存在すると民主制となるのか?と言うことに関しては、作中では示されていないものの、人口に関係するものと思われる。
本編時期における自由惑星同盟は、既に領内の惑星の惑星開発が終わり、資源不足から生じる仕事不足により人口が停滞していた。
それが民主制を揺るがし、崩壊の原因かとなったのではないか。
ヤン・ウェンリーは民主制の機能的優位性を信じているが、社会は必ずしも機能的に優れたやり方を採用するわけではない。
例えば戦争は、人類の行う行為の中で、最も無意味で無機能なものであろうが、戦争が無くなった時代はいまだに到来していない。
彼もまた、銀河最後の民主国家、自由惑星同盟の、その最後の世代として、民主主義という時代遅れの体制を、自分の祖国がそうであったから、という理由で信じているに過ぎない。
あるいは数千年後、ワープ航法の技術革新が起き、フロンティアが復活した時代においては、民主主義の殉教者として、彼は再評価されるのかもしれない。


【映画】



宮崎作品全般
仮説:宮崎作品の世界においては、人間ならざる者の世界が縮小していっているのではないか?

「ルパン三世 カリオストロの城」(79) ファンタジー要素無し
「風の谷のナウシカ」(84) ファンタジー要素無し
「天空の城ラピュタ」(86) ファンタジー要素無し
「となりのトトロ」(88) 1950年代の日本においては、人間ならざる者(トトロ)の世界が田舎にはまだ存在した
「魔女の宅急便」(89) 異色作、ファンタジーと人間の近代世界が共存する世界を描く (年代的には1950年代、白黒テレビが描かれているため)
「紅の豚」(92) ファンタジー要素無し
「もののけ姫」(97) Wikipediaによると室町時代らしい、この時代においては人ならざる者が普通に存在している
「千と千尋の神隠し」(01) おそらく映画当時くらいの日本、人間ならざる者(トトロ)の世界は既に人間の世界とは別の世界にしか存在しない
「ハウルの動く城」(04) 産業革命期あたりか、魔法と科学が共存している点から、本作は魔女宅と世界線を共有しているのではないか
「崖の上のポニョ」(08) これもおそらく映画当時くらいの日本、人間ならざる者(ポニョなど)の世界は海の奥地に追いやられている
「風立ちぬ」(13) ファンタジー要素無し

まとめると、宮崎駿の作品には3つの世界線があり、
(A)神などが存在しない世界線 ラピュタ、ナウシカなど
(B)かつて神などが存在した世界線 もののけ(室町時代)→トトロ(50年代)→神隠し(00年代前半)→ポニョ(00年代後半)
(C)魔法が存在している世界 ハウル(産業革命期)→魔女宅(50年代)
ということではないだろうか

そしてB世界線においては、
もののけ(室町時代):人間と神が同じ場所に存在

トトロ(50年代):神様(トトロ)は森の中に

神隠し(00年代前半):神様はここではない異世界に

ポニョ(00年代後半):神様(ポニョ)は海に
というように、徐々に人間の科学文明に押され、その生息域を減らしている

風の谷のナウシカ(アニメ版)(1984)
クライマックスの、巨神兵vs王蟲(オーム)の大海嘯のシーンについて。
このシーンでは巨神兵の準備が不完全であったため、1発目を撃った後、巨神兵が徐々に溶けて崩れていくが、これは作画が間に合わなかったため急遽変更されたものであり、
本来は完全体の巨神兵が、王蟲(オーム)の津波と戦い、最終的に敗北するというラストになる予定であったらしい。
では本来の、完全体の巨神兵が王蟲(オーム)に負けるというのはどういう意味なのかというと、
これは人類文明vsムシの戦いに、人類が負けたという、人類史上でも、地球史上でも重要なターニングポイントであった。
巨神兵とは人類が産業革命から1000年後の再絶頂期に作った最大の大量破壊兵器であり、火の7日間で人類文明を滅ぼした兵器でもあった。
その人類史上最強の大量破壊兵器をもってしても王蟲(オーム)に勝てなかった、ということは、イコール人類のいかなる武器、手段をもってしてもムシにはかなわないということである。
まさしく、人類がムシに完全敗北した瞬間であった。

火の七日間が起きたいきさつについて。
劇中、トルメキアとの戦争に完全敗北したペジテ市が、最後の一撃として王蟲(オーム)を使い、死なばもろともでトルメキア軍を葬ろうとした。
これは単なる物語を動かすための出来事ではなく、火の七日間も同じような理由で起きましたよ、という宮崎駿のメッセージなのではないか?
つまり、火の七日間が起きる前にも、軍事的に対立していたA国とB国があり、A国がB国を完全に壊滅させてしまったがゆえに、
B国が自暴自棄で核兵器的なタブーである巨神兵を起動し、結果火の七日間が起こってしまった、ということではなかろうか。

君の名は(新海誠)(2016)

宇宙から見てではなく、地球内部から見て、地球が丸いということを表現している、SFとして革命的なシーンだと思う。

シン・ゴジラ(庵野秀明)(2016)
本作が東日本大震災の影響を強く受けていることは指摘するまでもないだろう。
突如日本を襲う大災害、「想定外」などのキーワードなどは明らかに大震災をモチーフとしたものであるし、
矢口プランの血液擬固剤を経口投与するという行為が、福島原発への放水とそっくりである点は既に多くの人が指摘している。

個人的に、シン・ゴジラが公開された2016年というのは日本にとっても、世界にとってもターニングポイントになったと思う。
主な出来事としては、
「エリザベス2世、英国君主として最長の在位を記録」(2月)、「熊本地震」(4月)、「オバマ大統領、広島訪問」(5月)
「イギリス、EU離脱の国民投票」(6月)、「ポケモンGOサービス開始」(7月)、「トルコ、クーデター未遂」(7月)、「天皇陛下、生前退位のビデオメッセージ」(8月)、「ドナルド・トランプ当選」(11月)
などが挙げられる。(2016年特集ページ)

もちろん、本作の念頭として一番大きいのは東日本大震災であるが、それだけではない、東日本大震災からコロナまでの、2010年代という、
「何か、とてつもない悪いことがやってくるのではないか」、という時代の雰囲気を、本作は非常に上手に描いている。
ゴジラ公開後、11月には、あらゆる専門家の予測に反し。ドナルド・トランプがアメリカ合衆国第45代大統領となり、4年後にはコロナがやってきた。

シン・ゴジラは題名通りゴジラ(1954)のリメイクだが、1954年というのは高度経済成長が始まる前年であった。
翌1955年には、「もはや戦後ではない」「三種の神器」が流行語となり、保守合同により自由民主党が誕生する。
であるならば、初代ゴジラが公開された1954年は、戦後最後の年であるはずだ。
初代ゴジラでは、ゴジラという怪物が、理由不明のまま、夜になると東京を荒らしに来て、放射線をまき散らし、夜が明ける前に帰っていく。
これは、セリフとしては全く出てきていないが、「日本人よ、お前たちは経済発展なんかして、戦争を無かったことにするのか?あの記憶を、死んでいった者たちを忘れたのか?」
という強いメッセージがあるのは間違いないし、当時もそう受け止められたらしい。

オタキングこと岡田斗司夫曰く、ゴジラとは生物ではなく、神であるそうだ。
だからシン・ゴジラにおいても、多摩作戦で自衛隊の砲撃を浴びても、びくともしない。
あれだけの重さのある銃弾をぶち当てられれば、外皮強度の硬さは関係なく、後ろに吹っ飛ばされなければおかしい。
(ゴジラが極端に重ければ吹っ飛ばされない説明がつくが、そうなればゴジラは歩くたびに地面に足が埋もれるはずである)
そうはならないのは、ゴジラは巨大不明生物ではなく、物理法則を超越した神様であるという示唆だ。

ゴジラという神様は、日本に2度やってきたのだろう。
1度目は、1954年。まだ東京タワーがなかった時代の東京にやってきて、日本人に戦争を忘れてはならない記憶として、思い出させていった。
2度目は、2016年。東日本大震災の記憶がまだ薄れていない東京にやって来て、日本人にこれから起こる想定外の事態の予兆と、それに立ち向かう勇気を与えていった。

お勧めシン・ゴジラ考察動画

シン・ウルトラマン(庵野秀明)(2022)
冒頭、いきなりウルトラQが非常に良かった。
シンゴジ以後、コロナがやってきて、プーチンが戦争を始めた、この狂った時代を、原因不明の怪獣が次々にやってくる状況に例えているのは秀逸。

細かな工夫としては、宇宙人を外星人と呼んでるのも雰囲気出てて良い。
独立愚連隊なんて言葉が出てくるのも昭和~ってなった。

割と子供のころから思っていた「なんでウルトラマンは必殺技のスペシウム光線を最初から打たないんだよ」という矛盾が解消されているのも良かった。


【SF】



三体(2019~2021,中国では2008~2010)
海外の、しかもSFということで、非常に読みずらいと思っていたが、思っていた以上に読みやすかった。
近未来、男が皆女性のような顔に整形しているみたいな話も、共産党政権の中国であろうとも、生活感覚みたいなものは全然日本人と変わらないのだなあと。
個人の権利の尊重であったり、全体主義への嫌悪感であったりも、独裁政権の中国であろうと西側の価値観は浸透してしまっているのは少し驚いた。
個人的に一番衝撃的だったのは、最終巻の後書きで著者の劉慈欣(リウ・ツーシン)が、宇宙人の襲来を単なる空想ではなく、将来起こりえるかもしれないこととして信じ切っていたことだった。
私は数十年後の世界を描いたような近未来SFはともかく、それ以外のSFを単なる空想と思っていたが、本物のSF家は本気で宇宙人の襲来などを信じているのか、と。
確かに、そこまでサイエンスの未来を信じられれば、同じSF小説でも数十倍面白く見えるだろし、本物のSFファンはそこまで行ってしまっている人たちなのかあ、と。
私は三体のラスト、13次元宇宙の話辺りになると、"何でもアリ"になってしまい、つまらないと思っていたが、本気でそう言うこともあるかもしれないと思っている人たちなら、そりゃ面白いだろうなあと。


【戦記映画】



ハワイ・マレー沖海戦(1942)
パブリックドメインなので、YouTube等で見ることができる。
戦時中に作られたプロパガンダ映画ということで、どんな映画なのかと期待したが、8割まで訓練シーン。戦闘シーンは最後の10%だけ。
ああ、これが海軍の戦いなんだと感じさせられた。つまり、海軍軍人の人生といううのは99%までが訓練であり、実戦というのは最後の1%に過ぎないのだと。
本物の戦意高揚映画は、前線の勇ましい戦闘シーンではなく、銃後の生産や訓練をこそ描くのだと思わされた。

雷撃隊出動(1944)
YouTubeで見ることができる。そうとは知らずAmazonで有料購入した
敗戦色の濃い名作。「米軍の物量には、日本は勝てない。だが日本にはまだ特攻精神がある」といった感じ。
ラストシーンも凄い。最後は前線の軍人たちが、飛行機を作ってくれた内地の人へ頭を下げるシーンで映画が終わる。内地向け戦争プロパガンダ映画として、これ以上の映画はないだろう。

血と砂(岡本喜八)(1965)
全体主義映画、というのが第一印象。
なにせ朝鮮人慰安婦という存在を肯定的に半ば描いている。本当に戦後の映画か?
もちろん1960年代の映画なので戦争に対しては否定的に描かれているのだが、一方で軍隊の平等性などが理想的に描かれており、ドナウ連邦史みを感じる全体主義映画。

〈トップページへ戻る〉